大分県庁の前に、西洋音楽発祥記念碑があります。その名の通り、大分は日本における西洋音楽発祥の地です。これは、当時の支配者、大友宗麟が、1551年にフランシスコ・ザビエルを招き、キリスト教布教を許可したことによります。府内では、オルガンが奏でられ、聖歌が歌われました。弘治三年(1557)3月に、府内教会で2つの合唱隊がオルガンの伴奏で聖歌を歌い、滞在中のポルトガル人が合唱に加わった記録が残っています。
大分と瀧廉太郎
それから30年後の1587年。宗麟の死後、すぐに秀吉は、筑前箱崎でバテレン追放令を出します。更に鎖国を経た1879年(明治12年)東京で、後の「楽聖 滝廉太郎」が誕生します。瀧家は江戸時代、日出藩家老職をつとめた上級武士の家でした。当時の父の赴任先、「荒城の月」で有名な竹田市で12〜14歳を過ごします。1903年6月29日、23歳の若さで前述記念碑近くの現府内町で死去。その魂は、瀧家墓所、日出町で眠っています。
大分県立日出暘谷・日出総合高等学校兼務教諭
衞藤 準
大分学豆知識は大分合同新聞の毎週月曜日の朝刊にて連載中です。